新型コロナウイルス感染症でも実証されたナッジの効果
新型コロナウイルス感染症の感染拡大を防ぐために、手指の消毒を促す様々な試みが行われました。例えば、京都府宇治市の市役所では、消毒液を置いておくだけでは利用頻度が低いと判断し、出入り口の数歩手前から消毒液が設置された場所までの床面に、イエローテープで矢印を描いて誘導しています。また、ドアノブなどに貼り付ける「手を洗いたくなるシール」は、ウイルスを模したデザインの透明シールで、視覚的に手洗いを促す効果があると話題になりました。
このように、望ましい行動をとれるよう人を後押しするアプローチを、行動経済学では「ナッジ(nudge)」と呼んでいます。ナッジという言葉は、注意や合図のためにひじで人をそっと突くことを意味する英単語です。
ナッジ理論は米シカゴ大学の行動経済学者リチャード・セイラー氏が確立したもので、米ハーバード大学の法学者キャス・サンスティーン氏との共著『実践 行動経済学(Nudge:Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness)』(Yale University Press、2008/邦訳2009年、日経BP社)の冒頭では、「便器のハエ」の事例が紹介されています。「的に狙いを定める」という人間の心理を利用し、便器にハエの絵を描くことで、床に小便を飛び散らせないようにしたもので、オランダのアムステルダム・スキポール空港の清掃費を80%削減するという経済的効果をもたらしたそうです。
スウェーデンの地下鉄の事例では、健康促進のため階段を上ってもらおうと、階段を鍵盤に見立て、足を乗せると実際に音が鳴る仕掛けを施したところ、エスカレーターよりも階段を使う人が66%増加しました。また、フランスやベルギーでは「臓器移植をしてもよい」という人が90%近く存在しますが、これにはドナーカードに秘密があります。「臓器移植に賛成の場合は〇を付けてください」ではなく、「臓器移植に反対の場合は〇を付けてください」という意思表示形式にしているのです。ナッジとしてよく知られている方法の1つ「デフォルト設定の変更」を活用した事例といえます。
このようにナッジの効果は高いのですが、医療・健康分野では、患者を対象にナッジの介入を行っただけでは効果は小さい場合があることも分かってきています。そうした場合は、患者への金銭的なインセンティブが必要で、さらに医療者にも金銭的インセンティブを提供することで奏功する場合があることも示唆されています。医療の大きな道筋を示すだけではなく、それを実現させるためにどのような方法が有効か──。医療行動経済学のさらなる深化が期待されています。
〈参考文献〉
大竹文雄・平井啓 編著, 医療現場の行動経済学 すれちがう医者と患者, 2018, 東洋経済新報社
佐々木周作, 大竹文雄: 行動経済学2018: 11; 110-120